日本文学史における功労者・紀貫之ゆかりのスポットと「土佐日記」
【おでかけ】ろいろいしゆうき

高知の歴史に詳しい「歴史じいさん」じゃ。
平安時代前期から中期にかけて活躍した歌人である紀貫之は、日本の文学史において数多くの功績を残した人物。
延喜5年、日本初の勅撰和歌集である"古今和歌集"の撰者の1人となり、延長7年には"新撰和歌集"の撰を命じられ、延長8年から土佐の国司として赴任中に撰を完成させました。承平4年、土佐守として約5年の任期を終えた紀貫之は、土佐国から京へ帰るまでの55日間の旅を綴った"土佐日記"を書き上げます。
承平4年12月21日・【男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり。】
男も書くと言う日記というものを、女である私もしてみようと思って書く、という冒頭から始まる"土佐日記"。
紀貫之は男ですが、書き手を女性に仮託して仮名書きしたとされており、その後の日記文学や随筆女性文学の発達に大きな影響を与えたと言われています。

承平4年12月21日・【それの年の十二月の二十日あまり一日の日の、戌の時に門出す。】
ある年の十二月二十一日の午後八時頃に出立する、という文があります。この日に、紀貫之は土佐の国府を出発したとされています。

現在、土佐国衙(こくが)跡の一部は「古今集の庭」(南国市比江)として整備されており、紀貫之邸跡や紀貫之にまつわる石碑、古今和歌集選者である紀貫之にちなんだ和歌32首の掲示などを見ることができます。

「古今集の庭」では毎年、紀貫之を偲ぶ『土佐日記門出のまつり』を開催しており、今年は11月9日を予定。まつりでは、俳句の展示や抹茶とぜんざいによる接待、地域の小学生によるまほろば囃子奉納や土佐日記の朗読などが行われるそうです。

紀貫之は土佐の国府を出発した後、京都への船が出る、室津(室戸市)を目指します。
承平5年1月10日・【十日。今日はこの奈半の泊にとまりぬ。】
この前日、紀貫之は現在の奈半利町に到着します。紀貫之が奈半利町に2泊した記念として、奈半利橋の東には「土佐日記那波泊」と記された石碑が残っています。

1月11日、紀貫之は現在の室戸市羽根町に到着。「土佐日記」では、幼い子供がこの地名を聞いて【まことにて名に聞くところ羽根ならば飛ぶがごとくに都へもがな】と詠みます。
これは、本当に名に聞くとおり羽であるならば、飛ぶように都へ帰りたいものだという、望郷の念にかられる思いをよく表していますが、この幼い子供につけて思い出されるのが、紀貫之が土佐で亡くした幼い娘のことのようにも思えます。

室戸市の羽根岬には、この歌を刻んだ歌碑があるほか、室戸市室津には、紀貫之が命名したと今に伝えられている「梅香(まいご)の井戸」もあります。
「土佐日記」を詳しく読めば、紀貫之の移りゆくものへの心くばりや情に厚い人柄がよく分かります。
中でも、京都から連れて来た愛娘が急病で亡くなり、共に京都へと帰れない嘆きや情愛、哀傷は、日記文の至るところに伺うことができます。
【都へと思ふをものの悲しきはかへらぬ人のあればなりけり】
都へと帰るのだと思うにつけて何となく悲しいのは、一緒に帰らない人がいるからだ、と詠んだ紀貫之。
「高知県立文学館」には、唯一土佐に残る伝紀貫之筆「月字額」の拓本や「土左日記(土佐日記)」の延徳本(慶長五年書写)影印、「土佐日記抄」や「土佐日記考證」など、江戸時代以降の重要な注釈書や研究書を所蔵しており、展示しています。
みなさんも、紀貫之が旅をした場所を巡り、「土佐日記」を読んで、紀貫之が生きた時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
取材協力
- 南国市観光協会 https://www.nankoku-kankou.jp
- 高知県立文学館 https://www.kochi-bungaku.com











