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紀貫之が土佐から京都までの55日間を綴った土佐日記

2016.1.22

テーマ:ろいろいしゆう記

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高知の歴史に詳しい「歴史じいさん」です。
今日は、日本の歌壇史において数多くの功績を残した紀貫之が、土佐の国司としての任期を終え、帰京するまでの55日間の旅を記したとされる「土佐日記」をご紹介します。

紀貫之最古の歌とされているのは、寛平5年前後の「是貞親王家歌合」「寛平御時后宮歌合」。
紀貫之は、延喜5年、勅撰和歌集である「古今和歌集」の撰者の1人となり、延長7年に「新撰和歌集」の撰を命じられ、延長8年から土佐守の赴任中に撰を完成させました。
承平4年に土佐守の任期を終えて帰京した紀貫之は、日本最古の日記文学と言われる「土佐日記」を書き上げました。

承平4年12月21日・【男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり。】
男も書くと言う日記というものを、女である私もしてみようと思って書く、という冒頭から始まる「土佐日記」。
紀貫之は男ですが、日本文学史上初めて書き手を女性の筆に託して仮名書きしたものとされ、その後の日記文学や随筆女流文学の発達に大きな影響を与えたと言われています。

紀貫之-01 紀貫之-02 

承平4年12月21日・【それの年の十二月の二十日あまり一日の日の、戌の時に門出す。】
ある年の十二月二十一日の午前八時頃に出立する、という文があります。
この日に、紀貫之は土佐の国府を出発したとされています。
現在でも、南国市国府地区には、平安時代に国司として赴任した紀貫之が住んでいた国司館の跡があり、この邸跡の南一帯は土佐の国衙(こくが)跡と言われています。

紀貫之-03 紀貫之-04 

南国市では、そんな紀貫之を偲ぶお祭り「土佐日記つらゆき時代まつり」が開催されます(日程未定)。
当日は、紀貫之や紫式部、随身・供奉・市女笠等に扮した衣冠や十二単などの平安時代の衣装を身にまとった約150人もの行列が、国府(古今集の庭)の門出や大湊の船出の様子を再現しつつ、街中を練り歩くそうです。

紀貫之-05 

紀貫之は土佐の国府を出発した後、京都へと船が出る、室津(室戸市)を目指します。
承平5年1月10日・【十日。今日はこの奈半の泊にとまりぬ。】
この前日、紀貫之は現在の奈半利町に到着します。
紀貫之が奈半利町に2泊した記念として、奈半利橋の東には「土佐日記那波泊」と記された大きな石碑が残っていますよ。

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同日、紀貫之は現在の室戸市羽根町に到着。
「土佐日記」では、幼い子供がこの地名を聞いて
【まことにて名に聞くところ羽根ならば飛ぶがごとくに都へもがな】と詠みます。
これは、本当に名に聞くとおり羽であるならば、飛ぶように都へ帰りたいものだという、望郷の念にかられる思いをよく表していますが、この幼い子供につけて思い出されるのが、紀貫之が土佐で亡くした幼い娘のことのようにも思えます。
室戸市の羽根岬には、この歌を刻んだ歌碑があるんですよ。
また、室戸市には、紀貫之が命名したと今に伝えられている「梅香(まいご)の井戸」などもあります。

紀貫之-09 

「土佐日記」を詳しく読めば、紀貫之の移りゆくものへの心くばりや情に厚い人柄がよく分かります。
中でも、京都から連れて来た愛娘が急病で亡くなり、共に京都へと帰れない嘆きや情愛、哀傷は、日記文の至るところに伺うことができます。
【都へと思ふをものの悲しきはかへらぬ人のあればなりけり】
都へと帰るのだと思うにつけて何となく悲しいのは、一緒に帰らない人がいるからだ、と詠んだ紀貫之。
「高知県立文学館」には、唯一土佐に残る伝紀貫之筆「月字額」の拓本や「土左日記(土佐日記)」の延徳本(慶長五年書写)影印、「土佐日記抄」や「土佐日記考證」など、江戸時代以降の重要な注釈書や研究書を所蔵しており、展示しています。
みなさんも、紀貫之が旅をした場所を巡り、「土佐日記」を読んで、紀貫之が生きた時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

取材協力/南国市観光協会、高知県立文学館(高知県高知市丸ノ内1-1-20)