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よさこい祭りヒストリー 【昭和編】

2016.7.29

テーマ:ろいろいしゆう記

最終更新日:2023年7月5日

高知の夏と言えば「よさこい祭り」! 毎年8月9日の前夜祭を皮切りに、10日・11日の本番、12日の後夜祭・全国大会の4日間、土佐の街を色鮮やかな踊り子たちが乱舞します。
今や日本のみならず、世界にも広がりつつある「よさこい祭り」。今回は、その歴史やルーツをご紹介します!

よさこい祭り」は、全国的な不況の中、戦後の市民生活が落ち着きを見せ始めた昭和29年(1954年)に、「高知市全体が盛り上がるような祭りを立ち上げられないか・・・」「阿波踊りのように永続発展する祭りを、高知に!」との願いから、高知商工会議所らが市や県に協力を要請して開催が決まりました。開催日は、過去40年の気象データを分析した結果、8月で最も雨の少ない10・11日としたそうです。

こうして第1回目の開催は決まったものの、畑違いの事務局員だけでは肝心の曲や踊りの製作はいっこうに進まず、急遽、県内在住の著名な作曲家・武政英策氏に依頼しようということになりました。武政氏が依頼を受けたのは、6月25日のこと。7月1日からは踊りの練習の予定が組まれており、わずか5日間で作詞・作曲をしあげたそうです。

この時に作られた楽曲が、現在でも曲中に必ずアレンジされている「よさこい鳴子踊り」です。この時、武政氏は、土佐ではお米が年に2度穫れることにちなんで、田畑の鳥を追い払う為に用いた道具・すずめ脅しを模した「鳴子」を持つ踊りの原型も生み出しました。振り付けは、日本舞踊五流派の師匠に依頼。この踊りは「正調」と呼ばれ、伝統を重んじるチームに現在もなお踊り継がれているんですよ。

記念すべき第1回目の参加団体は21チーム、人数は約750人。当時は、交通規制が厳しかったため、街頭流しはせず、市内7カ所に特設した舞台上での競演でしたが、県内各所の有名な伝統芸能や「合成酒タダ飲み会」「ハシケン関所破り」なども催され、大盛況のうちに幕を閉じました。


昭和32年(1957年)には、踊り子を先導する地方車が登場。昭和34年(1959年)には、全国的に大流行した「南国土佐を後にして」を歌う、ペギー葉山さんが出演するということもあり、観客が倍増します。また、この年には、本放送を開始したばかりの民放テレビが初の実況中継を開始。高知市役所前に設置されたテレビカメラのまわりは黒山の人だかりができ、踊り子も見物人も大騒ぎとなりました。

よさこい祭り」の曲や踊りに大きな転機が訪れたのは昭和47年(1972年)。昭和45年(1970年)に「日本万国博」で「日本の祭り10選」の1つと紹介されたことがきっかけとなり、フランス・ニース市の市長から「よさこい祭振興会」宛に公式の招待状が届きます。これを受けて武政氏は、楽曲を新しくサンバ調に編曲。猛練習を積んだ踊り子選抜チームはニースカーニバルへの出演を果たし、その年のよさこい祭りでもその演舞が披露されました。その後、若者や米国の留学生たちによる個性的なチームが相次いで登場するなど、様々なアレンジ曲でバリエーション豊かな踊りが生まれます。

昭和50年代に入ると、踊り子は若者が主流となり、ジーンズの衣装を身にまとった踊り子や、生バンドが奏でる曲で踊るチーム、トレーラーを使用したド迫力の地方車などが登場し、観客たちの目を釘付けにしました。

よさこい祭り」発足の際に掲げた「新しい時代にふさわしい、新しいものを作る」という理念や、武政氏が楽曲の自由なアレンジを許可したことなどが、いつの時代にも自由で大らかな変化を受け入れる「よさこい祭り」の風土を育んでいるんでしょうね。

次回は「よさこい祭りヒストリー 平成編」をお届けします。お楽しみに♪

●取材協力/よさこい祭振興会 http://www.cciweb.or.jp/kochi/yosakoiweb/
※参考文献/よさこい祭り50年 画像提供/よさこい祭振興会

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